2016年03月31日

誠信交隣と徳川家康の平和外交/金両基さん

誠信交隣と徳川家康の平和外交1
誠信交隣と徳川家康の平和外交2
誠信交隣と徳川家康の平和外交3
 
【誠信交隣と徳川家康の平和外交】
 
静岡市在住の比較文化学者で、清見寺に遺された朝鮮通信使の遺産を掘り起こし、1987年から朝鮮通信使行列の再現を推進し、韓国と日本に遺された朝鮮通信使の外交記録、旅程の記録、文化交流関係記録(韓国側63件124点、日本側48件209点)をユネスコ世界記憶遺産に日韓両国で共同申請することに尽力された、金両基氏が、朝鮮通信使の史料との出会いから今日に至るまでの道のりをふりかえる文章を、釜山文化財団・朝鮮通信使博物館が発行する『朝鮮通信使JOURNAL』2015WINTER号に寄稿されました。
 
このたび、この原稿の日本語訳を、金両基氏が静岡商工会議所に寄稿されましたので、下記の通り、ご紹介します。
 
 
誠信交隣と徳川家康の平和外交
 
金 兩基(比較文化学者・評論家)
 
徳川家康が大御所としてすごした静岡には、清見寺を中心に朝鮮通信使の文化遺産が多数あり、清見寺の遺物は静岡県文化財に指定されている。
その静岡で、朝鮮通信使の歴史が再発見されるのは21世紀に入ってからである。
東海道400周年記念事業がその契機になった。
朝鮮通信使の両国往還が東海道を国際ロード・歴史ロード・文化芸術ロードへの発展に大きく寄与したと委員会で提案したのが、その契機になった。
通信使の道を平和の道・ピースロードと名付けて、関東・関西・九州で日韓トンネルを講じたりもしている。
  
徳川家康は関ヶ原の戦いに勝った直後、対島藩主に朝鮮王朝との国交回復を内々に命じ、その数年後の1607年に第1回朝鮮通信使が王都の漢陽と江戸を往還し、260余年両国の善隣友好が続いた。
隣国どうしが200年を超える善隣友好を堅持した歴史は、世界でも稀有であり、誇示に値する至宝である。
 
朝鮮通信使の歴史との出合いに私は運命的なものを感じている。
早稲田大学時代、東京神田神保町の古本屋で卒業論文の資料を探していたとき、『歴史地理臨時増刊 朝鮮號』という日本歴史地理学会機関誌の韓国併合記念特集号が眼についた(註1)。
ページをめくると「江戸時代朝鮮使節来朝絵巻」(註2)から写した「国書を載せたる轎」「屋轎上の正使」など8枚の絵図があり、その解説を数回読んだが、意味がわからず本棚に戻した。
 
1965年に、ソウルのソラボール芸術大学に招かれて帰国した時、ソウルの古書街であった仁寺洞に行き、そこで臨時増刊號の映写本に出合い、「德川時代初期に於ける日韓の関係」(註3)と「江戸時代に於ける朝鮮使節の来朝について」(註4)」を立ち読みしたが、文中の豊臣秀吉の武力外交はわかったが徳川家康の平和外交・平和主義という意味が理解出来なかったので熟読しようと、その本を購入した。
 
そして同僚の韓国史学者に、德川幕府を訪れた「朝鮮使節」「その正使」「国書」とは何か、徳川家康の朝鮮王朝との平和外交とは何かを聞いてみた。
その答が傑作だった。
「俺たちは韓国史を専攻しているのだ。その私たちが応えられないような質問を何故するんだ。」と叱られた。
 
朝鮮通信使の歴史とのこのような不思議な縁は、私がハングルの読み書きが出来たので、知友人たちが朝鮮演劇をテーマにした卒業論文を書けと強く奨めるので、神保町の古書街で資料を探し歩いたことから始まった。
 
祖国(韓国)と定住国(日本)を共有しながら思索するようになった原点は、1945年8月15日の日本の敗戦と韓民族の解放を同時に体験したことに始まる。
日本の天皇が敗戦を告げる玉音(ぎょくおん)放送を、國民学校高学年生であった私は、日本人と朝鮮人とともに聞いた。
 
日本人は泣きながら聞き、日本人でありながら朝鮮人と呼ばれていた韓民族たちは笑みを抑えながら日本人に遠慮して小さな声で、解放(ヘバン)・独立(ドクリブ)と呟いていた。
何れも私は初めて聞く単語であるから意味を知るよしもない。
早稲田大学の学生が「日本は敗戦、負けたが、僕ちゃんの所は日本から解放され独立するのだ、良かったね」と言ってくれた。
 
敗戦が負けを意味していることを初めて知ったが、ヘバン(解放)やドクリブ(独立)の意味はさっぱりわからなかった。
その晩、韓民族たちが我が家に三々五々集まり、手作りの酒や御馳走を持ち寄って宴を開いた。
朝鮮の民謡を韓国語で歌いながら、皿やどんぶりを持って立ち上がり、箸で打ち鳴らしながら、「ケチナチンチンナーネ」と合唱し、歌い踊り出し、ヘバン(解放)・マンセー(萬歳)、ドクリブ(独立)と歓声をあげ、喜び合っていた。
ケチナチンチンナーネは民謡で、マンセーは萬歳であることを知った。
 
これらの体験を源泉にして私の複眼思考が生成された(註5)。
金兩基=生活体験(日本生まれて育つ)+知的体験(祖国各地を歩く+デスクワーク)の図式のように、私の中で両国が共生を始めたのである。
韓国で朝鮮通信使のことを聞いて答を得られなかった私は、解放後から10年間の韓国人が書いた韓国史の本から探してみた。
先ず、解放後最初に出た崔南善著『國民朝鮮歴史』には、徳川家康の要望を受け入れて「1707年に国交を回復した。その後200年間平和な関係が続いた」とあり、200年平和時代が続いたと数行書いてあった。
『朝鮮王朝實録』宣祖王編を開くと、徳川幕府からの国交回復の要望に対する朝鮮王朝での議論が詳述されていた。
その段階で私は朝鮮通信使の歴史を事実だと確信した。
 
1987年、静岡県立大学教授に赴任し、通信使の文化遺産を多く保存している清見寺を訪れた。
境内には通信使に関する案内文や解説は全くなく、本殿の壁に通信使の詩文を彫った懸け板を見た。
その後、静岡の日本市民や在日コリアンたちに朝鮮通信使のことを聞いてみたが、知らなかった。
 
その翌年、静岡放送(SBS)から、ソウルオリンピックに合わせて韓日市民のテレビ・ブリッジを行いたいと言われて引き受けた。
その番組で清見寺の通信使の文化遺産を映写してソウルのMBCスタジオに集まった韓国市民に観てもらいという私の要望が通った。
ところが、本番の5分前にディレクターから映像の仕上がりが良くないので映写できないと言われて実現しなかった。
 
1年後に当事者から朝鮮通信使の歴史を知らなかったので撮りに行かなかったと言われてショックを受けた。
清見寺の檀家総代をはじめ静岡市長や知名人にも聞いてみたが、通信使のことは、だれも知らなかった。
 
その現状を知った私は、静岡市にとどまらず講演などで、東海道を国際ロード・平和ロード・歴史ロード・文化芸術ロードに発展させたのは朝鮮通信使の往還である。
徳川幕府は各地に通信使の往還のために新しい道も作った。
清見寺の近くにある薩埵峠(さった峠)は朝鮮通信使の安全のために作ったと話してみた。
すると、「朝鮮通信使とはいったいなんですか」という質問が出るようになった。
それを繰り返しているうちに、静岡県が主催する「東海道400周年記念事業委員会」が発足し、委員を委嘱された。
 
東海道の発展に大きく寄与した朝鮮通信使の往来の話が行政にも届いていたのである。
委員会で私は「東海道の発展に大きく寄与した朝鮮通信使の歴史の再発見のために再現行列の支援」を提案し、他県から参加していた委員の1人だけが大きな声で賛成し、反対はゼロだったので、支援が決まった。
 
委員会から支援金を得て、不足分は寄付を募って2001年、静岡市庁舎の間近に架設した舞台で、小嶋善吉市長が日本側代表(将軍の役割)、金兩基が正使役を演じて国書交換式を行った。これが1811年が最後になった朝鮮通信使往還以来の静岡で初めて行われた朝鮮通信使の行事である。
 
第1回再現行列の実行委員会は、日本の市民団体である「静岡に文化の風を」の会が主体となり、それに在日コリアン(在日本大韓民国民団静岡本部・在日本朝鮮総連静岡本部)の代表者も参加し、農楽(韓国の代表的民俗芸能)と舞踊などは朝鮮学校の学生たちが担ってくれた。
その行事は、日本の行政並びに日本市民と在日本大韓民国民団静岡本部役員並びに民団員、そして在日本朝鮮総連静岡本部役員並びに朝鮮学校の生徒が参加した初めての事業になった。
 
「静岡に文化の風を」の会は金兩基が名付け、発足のキーパーソンの役を演じた。
2005年、私はソウルから日光までの通信使の歩いた道のイベントへの参加を静岡県と静岡市に勧め、それが成功裏に終わり、その前後から清見寺への関心が韓国でも高まり、2006年に駐日本韓国大使館員と東亜日報東京支社長が清見寺の通信使の文化遺産を観に来た。
遺物を見ながら2人は「私たちだけで見るには勿体ないです」といい、それを一條文昭(いちじょうふみあき)住職に伝えると「機会があったら宜しくお願いします」と言われた。
 
その様子は東亜日報に報道され、記事を一條住職に渡し、私は静岡県の文化財指定を受けるために関係者や研究者を募り、清見寺の名前で申請した。
静岡県の教育長との質疑応答の役を私が担い、数ヶ月後、静岡県文化財に指定された。
 
このように、いつも通信使事業には韓日両国が関わり、それは運命的でさえある。
2006年には釜山の社団法人朝鮮通信使文化事業会・姜南周執行委員長が清見寺所蔵の通信使文化遺産を出版したいと申し出、小嶋善吉静岡市長が共同出版を提案し、『清見寺所蔵 朝鮮通信使遺物図録』が出版された。
私は静岡市側から編集に参加し、「朝鮮通信使と徳川家康の平和外交」を寄稿し、家康の平和外交を韓国にも喧伝し、その後、韓日両国の行政やマスコミなどで常用されるようになった。
静岡県大学図書館長会議で家康と平和外交と静岡での私の行動を話した。
「家康の御霊が私を静岡に招いた」という会場からの声に、聴衆は爆笑した。
 
東海道に面して建っている清見寺には、無数の通信使の墨書が懸け板として掛けてある。
寺門には玄徳順の「東海名區」が、本殿の表には「興國」の懸け板がかかり、興國のサイドに書かれた「朝鮮正使翠屏」の署名ははっきりと読める。
私は1995年頃に知ったのだが、静岡の郷土史家の米田一夫著『江戸時代の朝鮮通信使と遠江・駿河』が1988年に出版されており、家康の国交回復を内々に命じたと記された『通航一覧』からの一文を引用してあった。
そういう研究や動きがあったのだが、本を出版して数年後、著者は亡くなっていたので、残念なことに私との接触はなかった。
 
2007年、朝鮮通信使400周年記念事業委員会を静岡県・静岡市・日本市民・在日コリアンが起ち上げ、私はその委員長として再現行列を行う羽目になった。
初日は石川嘉延静岡県知事が、2日目は小嶋善吉静岡市長が朝鮮王朝からの国書を受け取る日本の将軍役を、正使役は駐日横浜総領事館総領事・民団静岡本部団長が扮した。
同じ地域で2日連日して通信使行列を行ったのは静岡だけであり、しかも晴天に恵まれて、大成功の声が木霊した。
 
その年、通信使が良く立ち寄った宝泰寺から400年記念として韓国の石塔をモデルにして常夜燈を建立したいという相談を受けた。
韓国の国宝である高麗の石塔をモデルに、韓国の花崗岩で造り、「平和常夜燈」と名付け、広島の原爆の火を灯し、本殿の正面に建立し、毎年平和祈念祭を行っている。
2008年、駐日韓国大使・柳明桓氏が静岡に来られた時、宝泰寺の平和常夜灯に大使をはじめ石川知事など著名人が平和常夜灯を囲んだ。
 
2014年11月、駐日本大韓民国大使館で日本記者クラブを招いて徳川家康と平和外交をテーマに私は講じた。
大使館では初めてのことだといい、毎日新聞の余録などにその様子が報道されるなど全国的な関心事になってきた。
 
2008年以降、主催団体は静岡市興津にあるNPO法人AYUドリーム(雨宮令子理事長)が主催し、国書の輿を時代考証して韓国で作るなど両国で初めての作業を展開した。
2011年から静岡まつりの定番に推薦され、まつりのメイン・イベントとなっている。
その発信役を担い、「家康公と松雲大使の2人出会いが通信使を生んだ」「国書が主役である」「国書の偽造や改竄は日本側の内部問題で、国家摩擦になったことはない」と喧伝して、市民たちに広がりつつある。
 
註1:絵巻は「秋元子爵所蔵」。
註2:1910年11月刊
註3:「辻善之助」稿
註4:「藤田進」稿
註5:拙著『韓国人か日本人か~今こそ在日同胞文化の創造を』サイマル出版、1976年刊
 
『朝鮮通信使JOURNAL』2015WINTER号
http://www.bscf.or.kr/jpds/2015_winter.pdf
※言語バーの言語入力方法を韓国語に変えてご覧ください。
http://www.tongsinsa.com/ebook/2015_winter/EBook.htm
※こちらは電子ブック
 
そのほか、金両基氏から静岡商工会議所報Singに執筆いただいた朝鮮通信使関連の文章は、次の通り。
 
「朝鮮王朝との国交を回復した家康」
http://bit.ly/1yvUVSb
 
「朝鮮通信使が見た富士山」
http://bit.ly/1olLDGd


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Posted by 静岡商工会議所広報室 at 09:49│Comments(0)徳川家康公
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